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管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:03 (No.503719)削除
投稿者:戸田六左衛門メール 投稿日:2009年11月11日(水)20時23分38秒
ちょっと自分なりに調べてみましたので、書き込みさせていただきます。
私の家紋は以前、申し上げた通り、九曜です。
家は戦国時代から明治初期まで代々の当主が戸田六左衛門を名乗っていた様です。
甲斐国史や甲陽軍鑑と言う文献にご先祖様の記述がある様です。
うちの隣の家も由緒ある家で、明治初期まで戸田六右衛門を名乗っていました。
当時は、うちは戸田六左衛門家、隣の家が戸田六右衛門家と呼ばれていた様です。
墓石には享保十五年に奉ったと言う様な内容が彫ってありましたが、、
風化が進み、はっきり読み取る事は出来ませんでした。
菩提寺に過去帳があるのですが、江戸時代に天災で寺が流され、それ以前の記述がない為、
最後の戸田六左衛門が何代目なのかはっきり判りません。
また何か解りましたら書き込みさせていただきます。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:03 (No.503718)削除
投稿者:管理人メール 投稿日:2009年10月23日(金)07時39分11秒 編集済
その後、なかなか戸田氏についての勉強が進まずHPの更新もままならず訪問していただいている戸田正彦様はじめ皆様にはたいへん申し訳なく感じております。女優の戸田恵子さんが新城戸田氏の末裔ということを教えていただき身近に感じました。さて、勤務地である徳山での会合で徳山城下を散策するイベントがあり、徳山藩屋敷図をみていたところ、武家屋敷の真ん中に戸田の姓を見つけることができました。愛媛県には戸田姓が多いと聞いていますが、当地ではあまり聞きませんでしたので非常に興味深かったです。なお徳山(周南市)は明治の軍人であり台湾総督で有名な児玉源太郎出生の地でもあります。なお「戸田六左衛門について」は2回目を削除させていただきました。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:02 (No.503717)削除
稿者:戸田六左衛門メール 投稿日:2009年 9月29日(火)08時18分59秒
戸田正彦様
ありがとうございます。どこから調べて良いか判らず、こちらなら、何かヒントがと思い書き込みさせていただきました。
先祖は武家であった様で、甲陽軍鑑と言う文献にその名前が記載されているそうです。
もう少し調べて、何か判ったら、またお邪魔致します。ありがとうございました。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:00 (No.503716)削除
投稿者:戸田正彦メール 投稿日:2009年 9月22日(火)12時13分22秒
お尋ねの戸田六左衛門については、生存時代や名乗りが不明だと、残念ながらはっきりわかりません。”随分偉い人”だったとのことですが、武士としての身分が高かったのでしょうか、それとも、なにか人に出来ないことを成した方だったのでしょうか。武士であったなら、例えば武田氏の家臣であったとか、家臣録、発給帳などで解明は可能と思います。名乗りがわかると、より早く近づけると思います。幕末時にはどうしてたのでしょうか。農家で、苗字帯刀が許された、名主庄屋であった元武士という家も少なくなかったはずです。この頁のオーナーの家は、まさにそれで、名前には、六郎兵衛 六太夫 六郎右衛門 六郎治等があります。家紋は貴家と同じく九曜です。六左衛門はないようですが、分家にあってもおかしくない名前でしょう。更に名乗りに、種○、○種という人が居たらかなり近いと思われますが、いかがでしょう。ちなみに、同じ我が戸田一族で、オーナーとは別系統ですが、三河国(新城)在住の一族の先祖に、戸田六郎三郎(慶長時代の人)がいます。声優で女優の戸田恵子さんのご先祖です。  先ほども申しあげましたが、このオーナーの系譜は、「浪の上戸田系譜」と言って、戸田氏にとって重要な一家の系譜ですが、公開されていますので是非インターネットで調べてアクセスしてみてください。私の申しあげてることがお解りいただけると思います。 情報が少なく、なんとも言えませんが、名前の六の一字、家紋の九曜という共通点がある戸田一族があり、調べる価値はありそうというのが現時点での感想です。お答えになったでしょうか、もう少しわかったらまた投稿します。 戸田氏連翹の会 戸田正彦
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管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:59 (No.503715)削除
投稿者:戸田六左衛門メール 投稿日:2009年 9月11日(金)21時58分57秒
山梨在住の戸田と申します。
私の先祖に戸田六左衛門と言う人がいます。
何でも、随分偉い人だったらしいのですが、
詳しい事が全く解りません。
墓石にも何やら、普通では使われない戒名が刻んであるそうです。
家紋は九曜です。
何方か戸田六左衛門についてご存知の方がいらっしゃいましたら、お話をお聞かせいただけたらと思います。
不躾な質問で申し訳ありませんが
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:58 (No.503713)削除
投稿者:戸田正彦メール 投稿日:2009年 6月29日(月)22時18分10秒
尾張藩の戸田氏を追いかけています。尾張藩付家老・犬山城主成瀬氏の家臣、幕末の学者・戸田勉室についてご存じの方が居られましたら、事績、人となり、などをお教えください。どういう血筋の方であったのしょうか。当代の方はおられるのでしょうか。禄高、藩中での役割、位置、なども知りたいのですが、なかなか知るすべがなく、困っています。あるいは地元で、それなりの専門の参考書籍などがあるようでしたら、お教えください。戸田正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:58 (No.503711)削除
投稿者:広木メール 投稿日:2009年 5月 7日(木)04時12分36秒
広木です。私の話に興味を持ってくださってありがとうございます。
残念ながら、もう当時のアルバムさえなくしてしまったのですが、私、歳をごまかしてました(笑)正確に言うと35年ぐらい前ですね。当時の先生のお写真を母校のHPにて見つけました。
http://www.sch.kawaguchi.saitama.jp/nishi-j/1974.htm
この写真の後列左から4番目、ちょっと背の高いめがねをかけた方が「戸田先生」です。手がかりがないかと思い、友達に聞いてみようと考えておりますが、私たちの担任の先生ではありませんでしたので覚えている同級生がいるかどうか・・・
時間はかかると思いますが、何かわかりましたらまた書き込みをさせていただきますね。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:57 (No.503710)削除
投稿者:戸田正彦メール 投稿日:2009年 4月20日(月)22時36分55秒
とうださんは、漢字ではどう書くのでしょうか。藤田、任田、東田、遠田、當田のどちらかでしょうか。子供のころ、「とうだ」と、「とーだ」を聞き分けるなんて、すごいですね。もうひとつ、藤原北家三条家流だと、どうして”「とーだ」でも不思議ではない”のでしょうか。確かに、戸田は系譜で見る限り、出自を藤原北家三条家としてあります。そうすると、「とーだ」になるのですか。面白いです。「とだー」と言われるより良いかなあ。かつて、東亜国内航空がTDAと略してましたが、これを見るとギクリとしました。関係ないですね。ともあれ、よろしく。戸田正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:56 (No.503707)削除
投稿者:とうだ 投稿日:2009年 4月15日(水)20時55分48秒
私は「とうだ」と申します。
実際は「とうだ」と筆記しながらも、地元では「とーだ」と呼ばれ、
「とおだ」なのか、子供のころは迷いました(笑)
戸田は田原藤太秀郷が発祥の北家藤原家なので、「とーだ」でも不思議ではないですね。
しかし、私が知っていた限り、「とうだ」姓は、
藤田、任田、東田、遠田、當田だけだったので、
十田や塔田という筆記もあるというのは、驚きでした。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:55 (No.503706)削除
投稿者:戸田正彦メール 投稿日:2009年 4月 7日(火)00時19分10秒
広木さま
中学生の頃のお話、興味深く拝見しました。それは川口でのことでしょうか。中学ですからおそらくそうでしょうねえ。
実は、私は、尾張藩の戸田氏の子孫を追いかけています。その家は尾張藩定府の祐筆の家系で、明治になってから、いろいろあって、系譜をお持ちの方が、大正時代に千葉から引っ越して埼玉の県庁に勤めたところまで突きとめましたが、その後がわかりません。県庁に勤めたとなると、浦和からそう遠くに住んだわけはないだろうと、3代位前のことになるでしょうが、浦和、大宮、与野、川口、蕨、の戸田姓の方に(電話帳で住所を調べて)もう5,6年前になりますが、往復はがきで問い合わせをしました。残念ながら、該当する方は見つかりませんでした。
ところで、30年前に、学校へ系図を持ってきて生徒に見せてくれた先生、なんと良い先生でしょう。社会科の先生とはいえ、家の中で、系図を持ち出せる立場の方だったのですねえ。
養子でなく、きっと長男、若い先生ではなく、かと言って年寄りでもなく(年寄りは大事なものはめったに家から持ち出さない)40代だったでしょうか。
とすると、今70歳代。ぜひ探してください。同僚の先生なら消息をご存じではないでしょうか。すみませんねえ、勝手なこと言って。
もちろん僕が探している尾張藩の方の可能性は低いと思いますが、祐筆→県庁職員→先生・・・という流れは無視できません。ともあれ戸田姓で、系図があるとなると、興味がわきます。ぜひ私にも見せて欲しいですねえ。ぜひ辿りついてください。よろしくおねがいします。 戸田氏連翹の会事務局 戸田正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:54 (No.503705)削除
投稿者:広木メール 投稿日:2009年 3月 5日(木)13時06分31秒
初めまして。私は埼玉県川口市在住のものですが、職場の会話の中で戦国武将の家系図の話題が出たのですが、私が中学生の頃、社会科の先生で「戸田先生」という方がいました。その先生はご自分の祖先である「戸田氏」の家系図を見せてくださったのですが、残念ながらもう30年も昔の話なので、下のお名前も思い出せないのです。職場には戦国時代の本を読み漁っているマニアがいて、話をするうちにその頃を思い出して検索していたらここにたどり着きました。
戸田氏のゆかりの方々は全国にたくさんいらっしゃるとは思うので、件の先生にはたどり着けないとは思いますが、私もちょっと興味を持ったのでお邪魔だとは思いますが時々覗かせていただきます。
よろしくお願いいたします。
そろそろ活動を再開します
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:53 (No.503704)削除
投稿者:管理人 投稿日:2009年 2月23日(月)14時17分15秒
長い間、ホームページの更新をしていませんで大変失礼しました。管理人不在の間、掲示板に参加の皆様に様々な話題で盛上げていただき感謝しています。当方、新潟、仙台と転勤し只今、山口県周南市(旧徳山市)にいます。今後も「三河戸田氏」に係る情報をご提供願います
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:53 (No.503702)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2008年 2月 9日(土)23時04分48秒
尾崎さま
三河日記の件で連絡させていただいた、尾崎さんでしたね。今回のご質問も、地元で動かれている様子が窺われ、成果のご発表がとても楽しみです。
さて、戸田新十郎藤原義信とのこと、残念ながら記憶の中にはこの方はありません。ただ、義の通し字を名乗りに使う旗本はいたと思います。寛政譜を見ていただければわかると思いますが、義陳〔よしのぶ〕と言う人がいた記憶があります。古い人ですが。その家が、代々義○で、新十郎、もしくは新X郎と言う名前があれば、その家の当代ということで追いかけやすくなると思いますがいかがでしょうか。
それより、僕が合点がいかないのは、「光照院全明堅眞居士」と、戸田宗光の「長與寺殿桂巖全久大居士」が併記されている墓の存在です。どんな意図があったんだろう、宗光の親でも子でもない〔そういう事実は聞いたことがない〕人と併記した、この墓石を建立した理由が知りたいですね。ただ単に、宗光の血を引く後代の者というだけでは、理由にならないでしょうし、納得感がないでしょう。まして、全久院ですから、開基〔確か2代憲光〕の父親即ち、「長與寺殿桂巖全久大居士」という戒名には特別の思いが寺にはあるはず。そう簡単には許さないでしょう。では何故できたのか、戸田新十郎藤原義信と、光照院全明堅眞居士はどういう人なのか、同じ人なのか、知りたいですね。
是非、全久院に尋ねてください。楽しみにしています。よろしく。
                          戸田氏連翹の会事務局 戸田正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:52 (No.503700)削除
投稿者:尾崎信之メール 投稿日:2008年 2月 9日(土)00時46分39秒
豊橋市の尾崎信之です。
豊橋市の全久院にある墓について早速のご返事ありがとうございました。
再度、明るいときに墓を見ましたら、先日はよく読めなかった最後の名乗りが「義信」ではないかと思われます。まだ、住職にお目にかかって話を伺っておりませんので、建墓の経緯は分りません。戸田新十郎藤原義信、戸田義信氏がいかなる人か御聞きして参りたいと思います。
以前には、宇都宮戸田氏の「三河日記ー三河大津太平寺参詣日記ー」の作者についてお尋ねしたところ山本喜三太政嗣であることをご教示いただきありがとうございました。お蔭様で読解が進み、会員一同大喜びでした.
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:49 (No.503697)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2008年 1月27日(日)18時54分59秒
尾崎さま
明治になり、多くの武家が寺との縁が切れていくなか、このような墓石が存在するとは全く存じあげませんでした。結論から申しあげますと、残念ながら戸田新十郎なる方はわかりません。明治ならその墓を守る当代の方はいることが想像されるので、まず寺に尋ねるしかないでしょう。それより、いくつかわからないこと、わかることがあります。
①全久院は、豊橋と、松本と、埼玉の本庄と、新潟の出雲崎にもあります。いずれも松本戸田氏に由緒のある曹洞宗の寺です。今回の件は、豊橋の全久院のことですね。
②「この墓を建てた戸田新十郎氏とは・・」とありますが、その墓を建てた方が戸田新十郎さんでしょうか。光照院全明堅眞居士が戸田新十郎ではないのでしょうか。見てないのでわかりませんが。戸田新十郎藤原□□とあるようですが、□□は全くわかりませんか?
③この戒名から見て、いくつか疑問があります。まず、全明堅眞の4文字が納得いきません。初代宗光は桂巖全久、2代憲光は信溪全忠、3代政光は一相全法、以下松本戸田が本家筋となる戸田氏は代々○○全○という戒名で、全の文字は第3文字目にあります。ところがこの方は、全○○○という、パターンからはずれたものになってるわけです。
④さらに、光照院全明堅眞居士とは素晴らしい戒名と思いますが、院殿、大居士ではないことから、殿様ではないと思います。それと、名前に新の字を用いるのは、例えば新次郎とか、大垣戸田系が想像されますが、宗旨が違う(大垣戸田は浄土宗)のでそれはないでしょう。
⑤全久院は我々の認識では、松本戸田の寺です。但し、明治になり松本は廃仏毀釈が激しく、松本の全久院は壊され宝物一切は豊橋の全久院に送られたと聞いています。そして、松本の殿様は神道になり明治以降は寺とは縁が切れてしまったわけです。ですが、一族すべてというわけではないので、松本戸田の血筋の旗本系の誰かでしょうか、初代宗光公と戒名を並べることに何か意味を持たせようとしているのでしょうか。ふつうあり得ない不思議な墓です。
⑥豊橋の全久院には多くの位牌があると聞いています。位牌の裏には俗名が書いてある場合があります。やはり、光照院全明堅眞居士の位牌を探し、全久院の過去帳を見せてもらうのが早そうですね。
以上答えにならなくごめんなさい。戸田新十郎藤原□□の□□さえわかれば、一歩も、2歩も前進します。よろしくご了承ください。  戸田氏連翹の会事務局 戸田正彦
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管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:48 (No.503695)削除
投稿者:尾崎信之メール 投稿日:2008年 1月23日(水)21時33分45秒
全久院の墓地の南端部に「長與寺殿桂巖全久大居士」と「光照院全明堅眞居士」とが併記され右側には戸田宗光の没年「永正五戊辰年六月十九日」そして左側に「明治32年5月4日戸田新十郎藤原□□」と彫ってある墓があります。この墓を建てた戸田新十郎氏とはどのような人でしょうか。又、光照院全明堅眞居士とはどのような人でしょうか。ご存知ならばお教えください。
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管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:47 (No.503692)削除
投稿者:愛媛の戸田メール 投稿日:2007年 7月15日(日)12時19分8秒
戸田正彦 様
私が目にした文献で宗光が伊勢氏の被官であったとする説を否定する根拠として挙げたものは、まさしく正彦様が下↓でお書きになった内容と同じものでした。
あるホームページによりますと、親元日記の寛正六年(一四五六年)十七日に、「申午、天晴、三河国御被官十田弾正左衛門尉宗光懸武庫御目」と書かれているようですね。
蜷川親元も幕臣としてかなりの地位の人であったようですが、そのような高い地位の人が書いた日記であるにもかかわらず、宗光を地方の土豪として下に見ているような表現ではないですね。幕臣であった親元の日記に宗光が称していた官職が書かれていた事を考えますと、正彦様がおっしゃるように弾正左衛門も勝手に名乗っていたものではないのかも知れませんね。

三河戸田氏について一般的に定着して伝わっている内容の中には、かなり疑わしいものもあるようですが、あたかもそれが事実であるかのように言われている事も多いのですね。
正彦様、いつも親切に教えて下さってありがとうございます。それとこのような場所を与えて下さった当ホームページの管理人様にも感謝しております。 愛媛の戸田
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 12:46 (No.503691)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2007年 7月14日(土)20時42分57秒
愛媛の戸田さま
この蜷川親元日記は有名な史料で、多くの三河の歴史を語る本に引用されています。三河の両目代として、松平信光と並んで戸田宗光が出てくるわけですから、(もっとも殆ど主役は松平氏)これはありがたいです。ところで、
[「宗光は将軍直属の家臣であり伊勢氏の被官であったとするのは間違いであろう」とする文献を見た事があります。]
とのこと、確か4通のいわば命令書と副書が引用され日記に残っていたという記憶があります。その中に、あて先が「・・・殿」とあったり、日記に「御被官」とあったりしたので、
それを根拠にしてのものでした。つまり、上位者の指揮下にいるので、「殿」とか、「御」とか、尊敬表現が見られるというわけです。田原町史でも確かに指摘していました。
確かにその通りだと思います。
この時代、松平は京都で金貸しをして近江に支配地を持っていたようですし、戸田氏も、八朔だったかなあ、節句の祝いに京都に上ったり、それなりの存在を示していたわけです。弾正左衛門と言う名前も勝手に名乗ったのではない可能性もあります。単なる山賊の類とは、些か距離があったと思いますが、ひいきかなあ。
当時、戸田氏は、矢作川をはさんで、岩津の反対側(西側)の上野を本拠地にしていました。上野は川の港で、戸田氏は、三河でとれた綿花や、農作物の矢作川を使った舟運を握っていたと思われます。このことが、後の三河湾の水軍につながっていくわけです。
話が広がってしまいましたが、この松平信光の娘が、宗光の奥方になったわけです。蜷川親元日記を是非読んでみてください。戸田正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:12 (No.503506)削除
愛媛の戸田メール 投稿日:2007年 7月14日(土)12時20分31秒
戸田正彦様へ
今回もさっそくお返事を下さり本当にありがとうございます。
蜷川親元日記に付きましては将軍の側近であった伊勢氏に仕えた蜷川親元が書いたものと紹介されていたと記憶しております。また田原町史を手にする機会がありましたらよく読んでみます。

「塔田」と書いた棟札の件は、今回初めて知りました。棟札ですからその寺の建立や改修に関係した人物の名を記録したものなので、そういった関係者の名を間違ったまま放置したとは考え難いですね。 「塔田」、「十田」、「とうだ」、いずれにしろこれらは非常に興味深い問題です。

宗光の頃はあくまで藤原氏である事を称し、自身が「戸田」と称するのはもっと時代が下がってからの事なのですね。これも初めて知った事であり勉強になりました。

いつも教えて頂いてばかりで恐縮なのですが、もうひとつお伺いしてもよろしいでしょうか。一般的には初代宗光は伊勢氏の被官であったと言われているようですが、これを否定し「宗光は将軍直属の家臣であり伊勢氏の被官であったとするのは間違いであろう」とする文献を見た事があります。(豊橋市に仕事で出張した際に限られた時間の中で図書館で見たもので、これが田原町史であったか豊橋市史であったか憶えていないのですが)
正彦様は宗光が伊勢氏の被官であったとする事についてはどのようにお考えでしょうか。
お時間に余裕のある時でけっこうですので、またご意見をお伺いできると幸いです。 愛媛の戸田
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:11 (No.503505)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2007年 7月13日(金)23時48分0秒
愛媛の戸田さま
今川実記なるものはわかりませんが、(徳川実記はわかりますが)「当時の幕府の公式文書」ではなく、同時代文書として第1級文書に捉えられる、蜷川親元日記に、「十田」は現れます。これは、松平信光(家康先祖)と戸田宗光が三河の賊を成敗した(依頼を受け達成した)有名な記録で、戸田氏の存在が所謂中央の歴史に出現した最古の記録です。
それが、戸田ではなく、「十田」と記されているわけです。当時の慣習から文字に拘泥することなく読みでそう記したのではと思いますが、実際十田だったのか不明です。それ以降の文書は、とくに「蜷川親元日記から引用」と記すことなく、”古くは、「十田」”としているようです。それ以前も、以後も、ほかには「十田」はないと思います。宗光以来、代々藤原氏を称していたようであり、戸田氏と自分で記すのはもっと時代が下ってからです。
では、尾張戸田村との関係ですが、もともと戸田村は、富田と書いて、とんだ→とだ・・となった説があります。ならば、富田と書いても良いわけで、ここのところはまだわかりません。もっとも尾張十田村とは書いたものはないですが・・・。
さて、尾張知多郡の河和の寺に残る史料の棟札に、確か戸田憲光(宗光の子)を、
「塔田・・」と書いたものがあります。これはショックでした。十田は「とだ」と読まず、
「とうだ」と読んだ可能性が出て来た訳です。つまり、塔田でも良かったわけでしょう。棟札ですから、本人承知のもののはずで、他人様に見せるつもりのない、メモみたいな日記とはわけが違います。
そんなわけで、十田は戸田の誰かが自ら称したことはないと思います。しかし、塔田はあるようです。読みに拘泥したことからそうなったので、本人は気にしてなかったのか?と疑問は残ります。研究の余地は充分ありますね。
以上答えになったでしょうか。戸田正彦
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