掲示板

BBS
アイコン設定
投稿者さん使い方

掲示板の主旨に反する投稿は掲載されません。掲載の是非は管理者が判断いたします。予めご了承願います。
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:10 (No.503503)削除
投稿者:愛媛の戸田メール 投稿日:2007年 7月13日(金)14時21分50秒
昨年、この掲示板に投稿させて頂いた愛媛の戸田です。以前、目を通した田原町史に初代宗光は、当初「戸田」ではなく「十田」と称しており、今川実記、及び当時の幕府の公式文書にも「十田」と記載されていたのとの記述があったと記憶しております。(少し記憶があやふやかも知れませんが)  尾張の海部郡戸田村を発祥の地とする戸田氏が、どういう理由で十田と称していたのでしょうか。また、十田と称していたというのは客観的に見て事実なのでしょうか。ご存知の方がいらっしゃいましたらどうぞお教え下さい。
よろしくお願い致します。 愛媛の戸田
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:09 (No.503502)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2007年 7月 8日(日)12時24分19秒
家系研究の定番というべき、名著、「姓氏家系大辞典」(太田 亮)の戸田項では、最後に1行で、『甲斐の国にありて巨摩郡に存せりと』とあります。正守さんの集落は巨摩郡でしょうか。かつて(20年以上前)、山梨放送や、興銀に戸田姓の方がいて、出身を尋ねたら旧巨摩郡だった思い出があります。
 山梨では、都留にも戸田姓の武家があり、旅館を営んでいます。甲斐国史は、目を通した事ありませんが、記述が見つかれば良いですねえ。
 三河戸田一族に繋がるものがあれば、どこの分れでどういう一族かすぐわかりますので、まずは、先々代以前を捉えるべく、菩提寺に行って、過去帳、墓石、などを調べ、本家の家伝資料を探し、地元の村史、町史などをあたることをお勧めします。わからなければ、地元の教育委員会の社会教育課に相談して、詳しい郷土史家を紹介してもらうのも良い方法です。
 ところで、家紋が九曜とのこと。戸田氏も大垣藩主の戸田と、三河に土着した多くの戸田はこの九曜を使用しています。ほかに女性用の紋はありませんか。
また、幕末は農業でしたか、あるいは武士でしたか。武田につながる話とか、何らかの理由でその地に住まうようになったとか、伝承はありませんか。
 ともあれたいへんでしょうが、チャレンジしてみてください。動けばきっと何かが見つかりますよ。戸田正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:09 (No.503501)削除
投稿者:戸田 正守メール 投稿日:2007年 7月 2日(月)13時45分53秒
戸田氏に関する研究を応援します。私も系譜作成に資料調達中です。又この場を借りて教えを頂きたいと思います。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:08 (No.503500)削除
投稿者:戸田 正守メール 投稿日:2007年 7月 2日(月)13時35分22秒
私も戸田家の系図を作成を試みているのですが、どの様な手段を講ずればよいか分かりませんので、この場を借りて皆様方に、教えを頂きたく投稿致しました。私の現住所は山梨であります。集落には戸田の姓が16軒程有あります。市役所に行き原戸籍を取ったところ先々代等の生年月日が天保5年または慶応元年までは分かりますが、それ以前が分からない状況です。ちなみに家紋は九曜星です。以前部落の年寄りからは甲斐国史の一部に掲載があるというのですが、甲斐国史を読んでもよく分かりません。戸田氏に関する情報がありましたら宜しくお願い致します
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:08 (No.503498)削除
投稿日:2007年 2月20日(火)11時58分31秒 編集済
ここでお聞きになる前に、そのお話を裏付ける史料はあたられましたでしょうか。
家系が古い=誰でも知っている、専門家が知っているとは限りません。横浜在住の戸田様がお知りになりたい情報を得るためには、貴方他関心ある人が動くことでしか、得られません。
少なくともここは正親町三条の流れを汲む藤姓戸田氏の掲示板ですので、その他の戸田氏の場合、関知し得ないでしょう。まして、有名な戸田姓には平姓などもあり、古い家系というだけでこの戸田氏とは一致はしないと思います。していれば、何らかの形で証拠が残りますし明確な伝承として伝わるはずですから。

まずは、可能な限り遡ることができる情報を遡り、戸田氏に関する家系の種類を研究し、郷土と一族の関わり、或いは一族の変遷を一次史料から探る。ここからはじめられることをオススメします。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:07 (No.503497)削除
投稿者:横浜在住の戸田 投稿日:2006年11月21日(火)18時54分35秒
初めまして。横浜在住の戸田と申します。14年前の父の死去をきっかけに、ルーツを探そうと試みましたが、良く分かりません。曾祖母の話だと、400年ぐらいは遡れるらしいです。江戸以前は分かりませんが、明治から現在に至るまでは、大阪に住んでいます。(私は、仕事の関係で、横浜に在住しております)
家紋は、丸に三つ柏なのですが、代表的な九曜、六星では無いので、別族なんでしょうか。
何か情報等がございましたら、ご教示下さい
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:05 (No.503494)削除
投稿者:尾崎信之メール 投稿日:2006年 7月10日(月)01時38分18秒
戸田正彦様へ
ご丁寧なるご返事有難う御座いました。太平寺文書『戸田因幡守殿先祖太平寺殿大忠玄光尊位御法事帳』によれば、施主は下野宇都宮藩主戸田忠温となっているそうです。この旅日記の初めの部分に「こたび我君の遠つ御親、太平寺殿清光のきみの失せ給いてより年はふたももとせにあまり6そちもやや過ぎしかど・・・」と書かれており、大井川を渡り牧野城址の所に『天正3年の8月の初め我君の遠つ御親清光の君もこの戦いのにはに出でおわせしが刃の下に消え給いしところ」というように諏訪原の戦で戦死しその遺腹の子金左衛門清堅が老津村を領し其後紀州藩に仕えることになったようです。清光の弟尊次が宇都宮戸田として存続したようです。
扨、著者は山崎知雄とも親交があり、スケッチも行い、和歌や漢詩もものする文化人のようです。山本喜三太にはなかしまの常道という名の弟がいたのでしょうか。山本喜三太についてもう少し詳しい情報を教えてください。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:04 (No.503493)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2006年 7月 8日(土)00時53分27秒
お尋ねの件、
まず、宇都宮藩の当用留たる、「宇都宮城主 戸田御家記」下野歴史学会 松井恒太郎なる1冊あり、活字本で復刻版もあり比較的手に入りやすいと思います。その102p下段の、同十巳亥年 「当用留」二月九日 の項にこの法要についての記述があります。御代拝山本喜三太とありますが、この人ではないでしょうか。家臣団の中から、どういう人か追いかけることも可能かと思われます。中島氏についても、私は存じ上げませんが、家臣であるなら
ある程度は追いかけられるのではないかと思いますが・・・。戸田氏の家系はある程度のことならお答えできますが。[藩主の遠祖「太平寺殿」戸田三郎右衛門忠眞(法名・太平寺殿大忠玄光)]とありますが、太平寺殿大忠玄光の[光]は[劫]ではありませんか。この方は、宇都宮戸田の祖、戸田三郎右衛門忠次(伊豆下田5千石)の長男で、17歳で討ち死にして、歴代にならなかった、戸田三郎九郎清光(大忠玄劫大禅定門)・・(子孫は紀州藩にあり、子孫は仲間です)のことと思います。当時、宇都宮藩では、三河時代のことは余りに遠く、不明な点が多かったようで、さすがに長興寺とは付き合いはあったものの、一族の中ではより近い存在であったはずの大津の太平寺とは付き合いがなかったようです。とり急ぎ部分的ですがお答えになったでしょうか。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:03 (No.503492)削除
投稿者:尾崎信之メール 投稿日:2006年 7月 5日(水)02時53分59秒
宇都宮戸田家では、藩主の遠祖「太平寺殿」戸田三郎右衛門忠眞(法名・太平寺殿大忠玄光)の260年遠忌を吉田大津村(現豊橋市老津町)の太平寺で行った。このときに名代で供養した人物が書いたと思われる旅日記(豊橋市二川宿本陣資料館発行:近世豊橋の旅人たちー旅日記の世界ーに含まれている)の中の記事から天保十年2月9日に法要を行ったようである。古文書解読同好会で此日記を解読しているのであるが、作者の特定が出来ず悩んでおります。宇都宮戸田家の藩士、戸田嘉十郎が当時番頭になっているようであるが、この人の奥方は中島氏とのことであるが、なかじまの常道という弟が存在しているでしょうか。此当時の宇都宮藩の御用日記の類は存在するのでしょうか。戸田家の詳細な家系図・日記など分りましたら御教ください。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:01 (No.503489)削除
投稿者:三河屋 戸田 投稿日:2006年 6月28日(水)10時55分44秒
お返事ありがとうございます。また会の話など教えてくだされば教えてください。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:01 (No.503488)削除
投稿者:桔梗 投稿日:2006年 6月18日(日)23時21分43秒
不確かな情報と記憶だけで書き込みしたにも関わらず、お返事を頂きましてありがとうございます。
 家紋は木瓜紋でした。変換ミスです、ご指摘ありがとうございます。
 彦根藩の学者の戸田氏についてですが、江戸末期~明治期の画家戸田北堂(確か仙太郎という名前だったと思います)がその子孫だということだけわかっております。
 江戸時代代々彦根藩の学者の家であったらしいのですが、幕府発足当時からの代々なのか等はまだ調べられておりません。
 また、個々の名前も今のところまだわかっておりません。一人でもわかりましたらまた質問させて頂きたいと思いますので、よろしくお願い致します。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 08:00 (No.503487)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2006年 6月18日(日)12時12分8秒
伊予西条の三河屋 戸田氏へ。
戸田氏連翹の会は18年前に、松本、宇都宮、足利の各藩主、大垣藩、宇都宮藩の各家老、尾張藩士、旗本など、三河の戸田宗光の子孫である戸田氏7人が集まって発足しました。正しい先祖の事跡を学習して次代に伝えようと考えました。知ることで先祖の供養にもなるし、今記録しておかないと古いことがどんどん忘れ去られていく危機感もありました。先祖に関する情報を一族で共有しよう、世知辛い世の中ですし、火事や地震で失われるのは後世の恨みにもなる・・・色んな思いがあります。今、メンバーは50人というか50家です。伊予では2人います。宇和島在住の豊臣の戸田武蔵守重政と、松山藩士の戸田の末裔の方です。会長はいません。前述の7人が責任上、幹事になって運営してます。   戸田正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 07:58 (No.503484)削除
投稿者:三河屋 戸田 投稿日:2006年 6月17日(土)10時43分44秒
西条市の三河屋です。戸田氏連翹の会について教えていただければありがたいです。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 07:57 (No.503481)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2006年 6月16日(金)15時13分6秒
譜代の戸田には、分家の一族が、同僚たる有力譜代に召しかかわれた例は数多くあります。いつの時代の人かわかりませんが、井伊家の家臣に学者となった戸田氏がいたとは知りませんでした。家紋の木工?木瓜でしょうか。・・この紋は、残念ながらわが戸田一族では使用している家は聞いたことがありません。先祖名、名乗りや、名の通し字などがわかるともう一歩前進するのですが、いかがでしょう。学問に注力した藩では、外部から学者を招聘して禄を与えて、お抱えとした例は数多あるはず。また、何代かに亘り家臣であった家から、出た学者もあり、どちらかで調査の仕方が変わりそうです。わが一族の場合は後者だと思いますが・・・。改めて調べてみます。戸田正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 07:56 (No.503479)削除
投稿者:桔梗 投稿日:2006年 6月13日(火)19時18分5秒
はじめまして。
 江戸時代の学者のついて色々と調べているうちにこちらへ辿り着きました。
 大変恐縮ですが、ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。

 彦根藩の学者・戸田家のことです。(家紋は確か木工紋で、藩内で一番偉い学者だったと思います。)
 本家筋と申しますか、大名や華族の戸田家に関しては色々と目にすることも多いのですが、学者の戸田家のことが上記のこと意外わかりません。
 こちらの戸田家は何流に属するのでしょうか?また掲載されている本等はあるのでしょうか?
 ご存知の方がいらっしゃいましたらよろしくお願い致します。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 07:55 (No.503478)削除
投稿者:吉田です 投稿日:2006年 4月27日(木)09時01分22秒
戸田正彦様
ご回答賜りました。大変ありがとうございました。
最後にお書き頂いた「わが戸田一族は…」
というところで凍っていたフラストレーション
が氷解しました。本当にありがとうございました。
また、疑問がありましたらおうかがい致します。
吉田
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 07:55 (No.503477)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2006年 4月27日(木)01時14分21秒
まず2つの疑問に関してですが、
①田原藩は幕末、戸田氏の支配下になかったと記憶しております。この記述は正しいのでしょうか。

お答えします。おっしゃるように、田原藩主は三宅氏でした。有名な渡辺崋山がいました。
戸田氏は、幕末の大名家は、信州松本、下野宇都宮、同高徳、同足利、美濃大垣、同大垣新田、以上6家です。このうち大垣藩は10万石で伯爵、ほかは子爵となっています。

②この田原藩主・戸田伯舜(伯爵と間違えているように私は感じたのですが…)氏は実在の人物で明治政府下で華族であったと読めます。この記述が正しければどんな爵位をお持ちだったのか

お答えします。前述の如く、幕末の田原藩主は三宅氏で戸田氏ではありません。戸田氏も幕藩体制下で田原藩主であったことはありますが、幕府草創期のことです。疑問の伯爵家は、戸田氏では大垣本家の戸田のみです。ちなみに三宅氏は子爵です。大名、即ち1万石以上の武家は10万石未満まですべて子爵、10万石になると、その上の伯爵になったようです。

さて、戸田武俊氏と言う名前には記憶があります。三井物産の参与で、商社マンとして活躍された方でしたら知ってます。もう亡くなられましたが、息子さんは仲間です。家は東京の千駄木でした。大正の初めの頃の生まれだと思います。慶応大学を卒業後三井物産で、確か鉄の売買が長かったと聞いてます。酒は一滴も飲まず、趣味は謡曲です。(個人情報の限界ですね。このへんで良いでしょう)
戸田武俊家は、宇都宮戸田の祖、戸田三郎右衛門忠次の三弟、戸田九右衛門勝則を先祖とする旗本で幕末には、陸軍奉行1500石戸田肥後守勝強がいます。この家は、同じ旗本の、清水権之助家と姻戚関係が輻輳していて、武俊氏も清水家で育っています。この戸田氏は幕末の知行地は今の茅ヶ崎で、一方清水家は、田原の先の(渥美半島の伊良子寄り)中山でした。
ということなので、
「戦前の華族出身で(中略)・・(私の知ってる武俊さんは大名でなく、旗本であり、華族ではない)
徳川家康の異母弟を先祖に持ち、・・(戸田から真喜姫が広忠に嫁しているが、弟はいない)
歴代徳川親藩として幕閥に列した・・(戸田の本家筋の松本戸田家は、家康の異父妹を嫁にもらい松平と、康長の名前をもらった。このことだろうか、前項のは。確かに松本戸田は、松平を名乗り、親藩大名である。宇都宮、大垣からは老中を輩出して幕閣に列している)
田原藩主・戸田伯舜(??記述通りです)が彼の養父。」・・前述の通り。

武俊氏が僕の知ってる武俊氏なら良いですね。大垣関係の養子になった方でも武俊と言う方は知りません。聞いたことがないです。ありそうでそうある名前ではないですから、どうでしょう、僕の知ってる人ではないでしょうかねえ。
もう少し情報があれば判断できると思いますが、いかがでしょう。元になる書籍は確実なことを書いたのではなく、記憶の断片を書いたのかもしれませんね。微妙に違ってますが、華族、徳川家康の異母弟、歴代徳川親藩、幕閥に列した、田原藩主、戸田伯舜、これらのキーワードはすべて戸田氏全体を指しています。
大筋合点がいきますが、武俊氏は、自分のことを言ったのではなく、わが戸田一族は・・・と言ったことが、彼自身に置き換わってしまったのではないでしょうか。これは推測です。
                               以上、  戸田正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 07:53 (No.503475)削除
投稿者:吉田です 投稿日:2006年 4月26日(水)18時09分2秒
こんなメッセージボードがあるとは知りませんでした。
少々調べていることがあります。
大変恐縮ですが、ご存知の方がいたら
教えて頂きたく書き込みます。ある友人から聞いた話で
「自処超然」(嶌信正・著/自費出版の自叙伝ようです)という書籍の中に
「戸田武俊君」という章があります。そこに少々疑問に思った一節があります。
戸田武俊さんについての昭和24年当時の記述です。
そこには「戦前の華族出身で(中略)徳川家康の異母弟を先祖に持ち、歴代徳川親藩
として幕閥に列した田原藩主・戸田伯舜(??記述通りです)が彼の養父。」
と記載、紹介されていました。疑問に思ったことがあります。
それは、「田原藩主・戸田伯舜が彼の養父」という部分です。
田原藩は幕末、戸田氏の支配下になかったと記憶しております。
この記述は正しいのでしょうか。
私の不勉強の可能性が高いのですが、その件についてご存知の
方がいらっしゃいましたら教えてください。
もう一点は、この田原藩主・戸田伯舜(伯爵と間違えているように
私は感じたのですが…)氏は実在の人物で明治政府下で
華族であったと読めます。この記述が正しければどんな爵位を
お持ちだったのかという2点です。
もし、ご存知の方がいらしたら是非教えてください。
よろしくお願い致します。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 07:52 (No.503473)削除
投稿者:戸田博メール 投稿日:2006年 4月15日(土)08時09分10秒
ありがとうございます。早速図書館に行って調べてみます。四百数十年前今の地に来てから過去を隠していたような気がしてならないのです。(気のせいかもしれませんけど)!それと安永年間に火災で全焼して一部を除いて焼失してしまったことで手がかりも殆ど無く歯痒い思いをしてます。これからも何か情報ありましたら宜しくお願い致します。博
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:53 (No.488075)削除
投稿者:戸田ですメール 投稿日:2006年 4月12日(水)23時53分41秒
早速のお返事ありがとうございます。なにせ亡父と共に身近な親類も一緒にこちらへきて、その方々の記憶すら曖昧なようです。家紋も本家を知る方(90歳)の遠い記憶によると、昔は九曜だけ(丸はなかった?)だったかも?だとか・・とほほです。まだ遠縁の方は中土佐町におられるらしいです・・家業が何をしていたのかはわかりませんが、かなり裕福だったのに、戦争時には戦闘機を寄付したり、散財が過ぎて衰退したと聞いています。機会があれば、遠い記憶を持つかたにいろいろと思い出していただけたら、と思います。豊かな知識から惜しげなくご回答下さいましてありがとうございました。
返信

Copyright © 戸田氏の系譜来訪者メッセージ, All Rights Reserved.