掲示板

BBS
アイコン設定
投稿者さん使い方

掲示板の主旨に反する投稿は掲載されません。掲載の是非は管理者が判断いたします。予めご了承願います。
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:52 (No.488073)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2006年 4月12日(水)22時24分4秒
できたらFAXしたいと思いつつ、遅くなってすみません。
じつは僕も半信半疑なんだけど、「尾張国諸家系図」展望社刊・加藤国光著
の203Pに「戸田氏は津島牛頭天王社(津島神社)の神職であり、・・・」
と言う記述があります。代々神職であり、戸田助五郎大夫宗光 以下、宗光
という名乗りをまた代々用いたとのことで、いちおうの根拠はあるわけで、
津島神社というところが博さんには納得感がありそうな気がします。
一度津島神社に行ってその根拠になる資料の活字本をコピーした記憶があります。
立派な神社で、たしか昔は海に面していたとのこと。伊勢神宮とのからみ、紀州の
山岳信仰にも、海(戸田氏は三河湾の制海権を握っていた)を押さえていたこと、
いろいろなことが関係しそうです。是非図書館で探してみてください。

ところで、左近右衛門(代々襲名、作乃右衛門)も左近右衛門を10回唱えると
作乃右衛門になりませんか?同じ意味でそう名乗った気がします。思い出しました
が、豊川には戸田作ノ太夫という先祖の人が住んでいます。その先祖は、
大阪の陣で怪我して豊川に土着したそうです。とり急ぎご報告しておきます。正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:51 (No.488072)削除
戸田正彦 投稿日:2006年 4月12日(水)21時57分13秒
ごめん、「幕末の藩主は山内藤堂でした」は間違い。「山内容堂」です。訂正します。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:50 (No.488068)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2006年 4月12日(水)18時35分53秒
義父の方が土佐出身とのこと。ご存知と思いますが、土佐と言えば、あの山内一豊の所領で幕末の藩主は山内藤堂でした。従って、もし幕末に武家で、土佐藩士であるならば、先祖が尾張出身である可能性が大きいですね(何故なら、家臣一同が尾張から土佐へ移動した)。となると、我が一族の可能性もあります。申し遅れましたが、私は三河出身の、譜代であった戸田一族の者です。発祥の地は尾張ですから、一族では織田氏に仕えた者もいたし、その関係で木下藤吉郎(秀吉)の家臣になった者もいたわけです。ならば、山内家に仕えた者もいてよいはずです。ぜひ調査してみてください。

調査の手順としては、
①高知時代の寺を探す。簡単にわからなかったら、戸籍謄本から、曽祖父までとにかくなにか手がかりかないか探す。名前や住所がわかれば、もう一歩です。
②今の寺、或いは位牌などで、過去を追う。菩提寺に以前の土佐時代の墓を移したりしたことはありませんか。
③もし武家であるなら、土佐藩の幕末の藩士録があるはず。名前がわかれば調査可能です。

家紋は丸に九曜とのこと。我が一族の戸田氏の使用した家紋は、六つ星か、九曜が多いので、その意味では「丸に九曜」は分家の使用する家紋としては納得感があります。ちなみにこのオーナーも九曜のはず。(分家の場合、本家と一線を画すために、例えば丸で囲むとか、ひし形でとか、かさをつけるとか、何かをプラスすることが多い)
お嫁さんが、戸田氏に興味をもってくれるのはホントにうれしいですよ。よろしく。正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:50 (No.488067)削除
投稿者:戸田ですメール 投稿日:2006年 4月12日(水)15時28分2秒
静岡在住です。夫の亡父は高知の土佐出身だったそうで、家紋は丸に九曜です。まったくルーツがわかりません。曽祖父くらいまでは栄えていたらしいですが、父の代にこちらへ移り住んだようです。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:47 (No.488066)削除
投稿者:愛媛の戸田メール 投稿日:2006年 4月12日(水)00時43分5秒
 正彦様、早速のお返事ありがとうございます。いつもながらその知識の深さに感服しております。また当家について興味を持って頂いた事を大変嬉しく思います。お返事の中に通し字について書かれていらっしゃいましたが、四国へ渡る以前の出自を紐解く手がかりになるやもしれませんので、当家の歴代当主の名前を書いてみます。
・初代 戸田弾兵エ尉 宗重
・二代 四郎左エ門尉 重氏
・三代 喜兵エ尉 氏重
・四代 長右エ門 氏一
・五代 利兵衛 氏忠
・六代 宇右エ門 氏治 (街へ出て三河屋を始めました)
・七代 喜右エ門 氏英
・八代 伊兵衛 英順
・九代 義一 依氏
・十代 知氏 (江戸時代最後の当主。私の曾祖父に当たります)

 初代~三代までの名に「重」の字が。また二代~十代までの間で八代の英順以外は「氏」の字が使われております。これを見て何か想像できる事はありますでしょうか。


 三河屋は西条藩より御米問屋を仰せ付けられ御領内の仲買人の取締役を勤めていたとの事ですが、明治維新によって廃藩となり西条藩の米を扱う事が出来なくなった為に店を畳みました。その後、十代 知氏は神学を学び、ある神社の宮司となりました。

 何かまたお気付きの点がございましたら、お教え下さい。宜しくお願い致します。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:45 (No.488064)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2006年 4月11日(火)19時04分31秒
掲示板を見て、驚きました。伊予の戸田氏については、30年前から興味を持って、伊予大洲、宇和島を歩きました。それは、ご存知と思いますが、豊臣武将で朝鮮征伐の折、彼の地でで病没して断絶した、伊予大洲8万石とも10万石とも言われた戸田民部少輔勝隆の事跡を追ってのものでした。その後、勝隆の弟で関が原で西軍に与し、討ち死断絶した戸田武蔵守重政(勝重とも)の子孫が宇和島に土着していることがわかりました。今では一族の集まりである、戸田氏連翹の会のメンバーになっています。また、字幕スーパーでおなじみの戸田奈津子さんのお父さんの家も伊予であったようです。
「伊予史精義」を始め、地元に残る歴史書には、戸田民部少輔勝隆の評判の悪さのみ残っているようですが、勝隆も豊臣の武将として四国に従軍しているはずなので、長宗我部元親の客分となった貴家の先祖との関係を考えると非常に興味がわきます。
 戦国末期と言うのは、(天正より前)戸田氏にとって受難期で、竹千代(後の家康)強奪事件から、本家が今川氏に攻撃され断絶の憂き目をみました。それがあったことから、この頃、一族が離散し、系譜の不明な部分が多くなっています。中には織田方から秀吉についた戸田氏(前述の勝隆たち)もあり、各地の大名の家臣となった一族も少なくないようです。
 さて、貴家の件ですが、多くの驚きの事柄があります。

①家紋については、戸田氏は六曜(我々は、六つ星と言います・松本、宇都宮、足利各藩主家)か、九曜(大垣藩主家)を用いますが、両方持つ家はありません。替紋、或いは女紋とも言いますが、連翹の紋を使う家が多いようです。「紋所 定紋 六曜  軍用紋 九曜」軍用紋 という表記はありませんが、梅鉢との誤認など納得できることです。

②戸田 弾兵エ尉 宗重 実に良い名前です。戸田家初代の戸田弾正左衛門尉宗光を彷彿させる名前でしょう。間違いなく強い意識が感じられます。驚くのが次の代の戸田四郎左エ門尉 氏重です。この氏重と言う名前は二重の興味が沸きます。宗重、氏重ですから、重が通し字だとすると、戸田武蔵守重政(勝重とも)が浮かびます。また、「六代目の 宇右エ門 氏治の時、街へ出て商いを営むようになりました」とあることから、その後「氏」と言う字がキーワードとも考えられます。豊臣武鑑では、戸田民部少輔勝隆を戸田民部少輔氏繁としたものもあります。また、大垣城主の戸田氏が、代々まさにこの「氏○」の名乗りを使用しています。(幕末は氏共)大垣の戸田氏は天正年間の火災で系図を焼いてしまい、古い時代は不明と幕府に届けていますが。

③「戸田という姓は住んでいた地名から取ったものである。」その通りで、我が一族は、尾張の海部郡戸田村(現在は名古屋市中川区戸田町)を発祥の地としています。

④「本国 参河国宝飯郡坂田村」を本貫の地としたことは、なにか根拠があるのでしょう。調査しないとわかりませんが、今でも愛知県のあちこちに一族と考えられる方が部落を形成しているところがあります。

ごめんなさい、答えにならないかも知れませんが、一族が今週末に20人東京浅草に集まりますので、愛媛の戸田さんの話をしてみます。知ってる人が居るかもしれません。私は豊臣の戸田氏との関係にフォーカスしたいと思っています。 戸田正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:44 (No.488063)削除
投稿者:愛媛の戸田メール 投稿日:2006年 4月10日(月)22時52分48秒
戸田 正彦様
予てより非常に興味を持ってこの掲示板を拝見しておりました。本日は私共の先祖について何かご存知ではないかと思い初めて書き込みさせて頂きました。当家は現在、愛媛県新居浜市に住んでおりますが、明治の初期までは愛媛県西条市に住んでおりました。代々の口伝えによる伝承によりますと豊臣秀吉が行った四国征伐(天正の陣)の折り、当家の先祖は三河より一族郎党を従え四国へ渡り長宗我部元親の客分となり、愛媛県西条市で小早川軍に敗れ当主は討ち死にしたと伝えられ、現在も戦死したと言われる場所にこの先祖を祭る塚が残っています。

次に当家に残る系図では次のように記述されています。
・本国 参河国宝飯郡坂田村 (現在の小坂井町のようです)
・神別 藤原氏血統
・大祖 天児屋根二十二世孫 大織冠鎌足公後裔正親町院三條末葉
・紋所 定紋 六曜  軍用紋 九曜

人物名に付きましては私から見まして十二代前が当家の初代として書かれておりまして

・初代 戸田 弾兵エ尉 宗重
    慶長十二年十一月八日卆 法号 ○玉院殿看林正光覚真大居士
    (上記の○は、私には読めない字)

・二代 戸田 四郎左エ門尉 氏重
    元和五年八月九日卆 法号 清淨光院真如道正東谷大居士

と続きまして、私は本家の跡取りではありませんが、十三代目に当たります。

やはり口伝えによる伝承ですが、戸田という姓は住んでいた地名から取ったものである。合戦の際に九曜の紋を使うようになったのは、六曜は梅鉢とよく似ている為、梅鉢と誤認されるのを防ぐ為に合戦では九曜を使用するようになったという話しが伝わっております。

非常に残念なのは、三河より長宗我部の客分として四国へ渡って来た先祖の名前が分からないという事です。当家の初代宗重が亡くなったのが慶長十二年(西暦1607年)と記されている事から、この宗重は四国征伐(天正の陣 西暦1585年)の際に四国へ渡り討ち死にした人物ではありません。年代的には四国へ渡った人物の息子ではないかと考えられます。この四国へ渡った人物の名前が分からない為、本国、神別、六曜、九曜といった戸田宗光に繋がるキーワードがありながらも具体的にはどのようにして宗光に繋がるのかが分かりません。

四国征伐後の当家の歴史についてもう少し詳しく書きますと、敗戦後愛媛県西条市に土着し居住した場所は、天正の陣で先祖が亡くなった場所の近くであったようです。江戸時代の西条は和歌山藩の支藩であり松平家によって統治されておりましたが、西条藩に仕官するといった事もありませんでしたので、天正の陣での敗戦後、又は徳川の世になった頃には既に侍ではなくなっていたもようです。六代目の 宇右エ門 氏治の時、街へ出て商いを営むようになりました。三河出身であった事から屋号は『三河屋』と名乗りました。その後の商売は順調で西条藩主松平公からの信任も厚く家譜によりますと代々公役を仰付けられ傍ら御用達相勤め大年寄格苗字帯刀御免であったと記録にあり、幕藩体制が終焉を迎えるまでは非常に繁栄したようです。

前述しましたが重ね重ね残念なのは当家の系図に四国へ渡って来た先祖の名前が無い事です。この件に付きましては素人なりの私の勝手な想像ですが、私共の先祖が客分となった長宗我部元親の跡を継いだ四男 盛親は大阪夏の陣では大阪方に付き、その後京都の六条河原で六人の子女とともに斬首された徳川にとっては大罪人でありますので、松平氏のお膝元で商売を営んでいた事もあり、長宗我部軍として戦った先祖の事を憚り、敢えてその人物についての記載がない系図を残したのだろうか?と想像します。

正彦様、長々と書きましたが、当家の先祖について何かご存知な事はありませんでしょうか? 感想、矛盾点についてのご指摘でもけっこうですので、何かコメントを頂けると幸いです。よろしくお願い致します。 愛媛の戸田
正彦様  投稿者:戸田博メール 投稿日:2006年 3月31日(金)13時23分58秒
孫右衛門ー娘    }ー左近右衛門(代々襲名、作乃右衛門)ー現在16代目
  ↓ 作乃右衛門(婿養子、この人物が津島神社の神主との言い伝え)↓
(隠居にて別家設立)ー左近右衛門の弟を養子にして孫右衛門家が明治まで続く。
これによって当家の初代は作乃右衛門と言う事になります。
*孫右衛門家は別家になり明治初めに家名断絶になり不明です
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:42 (No.488062)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2006年 3月30日(木)23時47分20秒
博さま
戸田氏は代々名前に「孫」を使用しています。すべてではありませんが。初代宗光が孫四郎
で2代憲光も孫四郎と言う時期があったかもしれません。本家の戸田は(信州松本藩主)は
当主は代々孫四郎でした。分家は、孫十郎家(旗本5千石)、孫七郎家(旗本5千石)となっています。知多の河和には戸田万五郎なる人が出てきますが、私は戸田孫五郎ではなかったかと思っています。(孫五郎を10回続けて言ってみてください。・・ほらね。)
さて、貴家ですが、
「初代から3代まで女性の戒名が大姉で男性が上座(曹洞宗)なので孫右衛門の娘が婿取りしたのではないかと思います。孫右衛門が隠居して娘の子供を養子にしたと推測されます」
この部分の意味がよくわかりません。
初代は孫右衛門でしょ?3代までの奥さんが、戒名が大姉で、〈男性が上座(曹洞宗)なので〉この部分が不明。どうして〈娘が婿取りしたのではないか〉となるのでしょうか。
そして、〈孫右衛門が隠居して娘の子供を養子にしたと〉推測できるのか、これだけではわかりません。なにか理由があるのでしょう、もう少し詳しく教えてください。
さて、この知多の河和戸田氏は家康の母、お大の方の実家の水野氏と関係深く、河和戸田氏本家は水野氏を名乗り健在です。更に分家は戸田を名乗り緒川という水野氏の本拠地にこれまた健在です。また、家康の命令で紀州藩に仕官した知多の戸田も居ます。ただ、貴家の場合は津島神社が出てくるので、単純に孫右衛門と言う名前だけで、知多の戸田に結びつけるのはちょっと厳しいかなとも思います。もっと古いかもしれないし、なにか特別な理由でそちらに移ったかも知れません。孫右衛門という名前は戸田氏としては重要な名前なのですよ。初代が戸田孫右衛門、というのはなにか残ってますか。ぜひもう少し詳しく教えてください。次回は、津島神社との絡みを説明します。         正彦
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:41 (No.488057)削除
投稿者:戸田博メール 投稿日:2006年 3月30日(木)16時02分24秒
戸田正彦様  書き込み頂きながら、遅くなってすみませんでした。実家は旧駿河国志太郡身成村(島田市)で、代々農業を営んでいます。初代から3代まで女性の戒名が大姉で男性が上座(曹洞宗)なので孫右衛門の娘が婿取りしたのではないかと思います。孫右衛門が隠居して娘の子供を養子にしたと推測されます。慶長からの戸田家が明治まで2軒ありました。代々名主、組頭(時代によっていづれか)の役をしてきましたが安永2年に家が全焼してほとんどの物が焼けて、年貢の台帳だけが残ったようです。津島神社の件は言い伝えによりますと神主をしてた人だと言われています。明治になって一度、戸塚と言う苗字にしましたがやはり元々苗字が良いとの事で戸田に戻したそうです。いまでも守り神として津島様(天王)を祭っています。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:40 (No.488056)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2006年 1月16日(月)23時22分29秒
帯刀先生へ。
帯刀先生は帯刀職の長官名とのこと、浅学の身ゆえ、誠に失礼いたしました。
水戸藩の戸田有信にゆかりがあるとのこと、すぐる日、水戸の彰考館に行き藩士の系譜を見せていただいたことを思い出しました。それによると、その始めを康光として、

康光ー政光ー重光
      重貞
      重政ー有利ー有信ー有重ー有次ー忠長ー忠真ー忠信ー忠之ー忠敞ー忠則            有慶 有影       忠正          忠誨
このような系譜でした。となると、貴家は<松平康長の従兄弟にあたる仁連木戸田氏>ということは、松平康長の親と、親同士が兄弟ということでしょうか。

有信は三衛門と称し、寛永元年に水戸家に仕えて二百石を賜ったとのこと。系譜には少々不審がありますが、分家した、有信の祖父の代こそ、戸田氏の苦難の時代で(本家が断絶した)系譜も不明になっている時代ではありますので、これまた致し方なしと思います。

戸田一族の歴史を学習し、次の時代に伝えようと一族の会ができて18年になります。まだまだではありますが、みんな学習しようという意欲は持ちつづけて居ます。先日も瀬戸の品野を歩き、次は信濃の大河内城方面に行こうと話していました。奥が深いですよ。

南北朝まで行くと、時間軸から捉えると、やはり行きすぎと言うか、戦国武士の世界からやや離れるなあという気もします。とはいえ、できるだけニュートラルに見てみようと思いますが。さてさて。

我が戸田氏は、藤原氏で統一されてますが、各地に残る情報としては、その昔を遡るとですが、源氏、平氏、いろいろ説はあります。
古いことですから、簡単には結論を出せないと思います。これからもよろしく。 戸田 拝
(無題) 投稿者:帯刀先生メール 投稿日:2006年 1月16日(月)09時47分32秒 編集済
まず、名前の点から釈明を。私、教師から何かで先生という指導的称号を称しているのではなく、家職ともいうべき帯刀の官途名 帯刀職の長官 帯刀先生(たてわきせんじょう)を称したに過ぎません。先生(せんせい)ではないので、間と干せてしまったらお詫びします。

ご子孫の視点のみならず、冷静な鋭いご指摘であると感じております。穏当な見方ではないでしょうか。光忠流に関しての勘違いはお許しを。

私自身は戸田氏ではなく、遠い祖先のたった一人にそういう人物がいるに過ぎません。

松平康長の従兄弟にあたる仁連木戸田氏の 水戸藩士 戸田有信です。

南北朝時代と戸田氏を結びつけるとすれば、戸田宗忠の存在ですか。確かに、そのような武将がおり、南北朝時代は信濃宮宗良親王の挙兵に応じ、信濃の大河内城に入った後、尾張国品野に移ったという記録はあるようです。

源氏か藤氏かを越えてこの武将との結びつきを指摘する声もあり、気になっているのも確かです。しかし、批判的な検討を心がければ、この人物と宗光を祖父と孫にするには、時代が空き過ぎていると感じなくもないのですが、人物の存在自体、一度たりとて否定されていませんし、関係の有無は検証価値自体は大いにある点であろうと思います。

尤も、田原戸田氏との関係を別にして、尾張国には海東郡には桓武平氏流の戸田氏がいたとされており、田原戸田氏と無関係な存在としてこの系譜に属する武将であるという見方ができるとすれば、田原戸田氏と無関係な戸田氏がいたとしても不思議はありませんが。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:38 (No.488051)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2006年 1月15日(日)00時13分41秒
帯刀先生は、お名前からして、水戸の戸田氏に連なる方でしょうか。歴史学に造詣深い方のようで、素人が大変失礼しております。(文字になると表現が強くなるので、まずいなと思っています。お許しを。)

さて、戸田氏源氏説ですが、私個人としては、太田 亮さんの取り上げた、建保元年から始まる、海部郡戸田庄の源 章経でしたか、ここに繋がる戸田氏の系統には興味を持ちましたが、良質な文献がないので、信じるにはなかなか難しいところです。仮にあっても、南朝に結びつける品野の故戸田修二さんの説は、質的にどうかなと思っています。まして誓願寺に置いた戸田系譜は良く出来てますが、首を傾げざるを得ません。確かに歴史学には多くの説が並び立つと私も思います。ですが、説、と言うにはあまりにひどいものもありますので、吟味は必要かなと。

また、先生の文に少し(①、②、③)疑問がありますので書かせていただきます。

①<戸田康光の討ち死に後、田原城主を相続した戸田光忠の系統に属する宇都宮、足利その他の藩主はともかくとして、>

今川氏に攻められ、戸田宗光(康光)、堯光の親子は、田原の城をまくらに討ち死にして、戸田氏の本家は断絶しています。当家も<戸田光忠の系統に属する宇都宮>系ですが、田原城主を相続した事実はありません。ただし、幕府開設後、戸田光忠の孫にあたる戸田尊次が下田5千石から田原へ1万石で入封しその後宇都宮戸田となりました。

②<戸田康光の次男 宜光の血をひく、松本藩主家 松平丹波守に限っていえば終始 藤原姓のみを称したとはいいきれないようです。
その説に関しては江戸時代の文書が根拠のようですが、その成否を別として、陸奥六郎義隆を祖とする清和源氏説を称している文献がありました。>

いつ頃の文献かわかりませんが、おっしゃるようにいろいろな説があり、それなりに論を構築しているものと、採りあげるのもどうかと思われる説もあります。松本の戸田氏が源氏を称したことがあっても不思議でないと思いますが、私はまだ確認できてはいません。不思議でないと思うのは、松平だからです。戸田康長は家康公の異父妹を室にしたわけですから、将軍家に連なることを強調したければ、或いは、松平ですから源氏を標榜したかもしれません。
しかし、<陸奥六郎義隆を祖とする清和源氏説を称し>ているとはにわかに信じ難いですが、いかがでしょう。

③<予測の範囲としていわれているのは、戸田氏は近江国発祥の正親町三条家の代官で、領家たる藤原氏を仮冒したものという>

近江の住人、戸田十郎頼方、頼房と言う名は、多くの戸田の系譜に見られますが、私は戸田氏の発祥の地は、尾張の戸田庄が、現在のところ、最も妥当と考えています。その後移った三河の上野(誓願寺のある地)は正親町三条家の領地で、そこの代官であったことはほぼ間違いないと思います。結果、仮冒したに過ぎないかも知れませんし、遠い血筋の者が入ったかも知れません。まだ研究の余地があります。

きっとどこかに、本当のことを書き記した系譜があるのではないかと期待しています。「波の上戸田系譜」はそのひとつですが、まだまだ、幕藩体制に組み込まれた武家ではなく、正直に書き残しても障害にはならない家に残っているのではないかと。

戸田氏として、帯刀先生には深く感謝します。どうかこれからもよろしくご指導ください。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:34 (No.488046)削除
投稿者:帯刀先生メール 投稿日:2006年 1月13日(金)18時53分18秒
願望云々は個人的な感情でありまして、とある戸田氏の人物の関係者である私個人の意見として書かせて抱きました。他の戸田氏の関係者には甚だご迷惑なお話でしたと思います。その意味で訂正します。個人としてどう思うか、およそ歴史の研究や論証とは一線を画すべきプライベートなものであるとおもいますので、これ以上はさしひかえますが。


ただし、清和源氏説そのものの正当性と、説そのものの存在の有無は別に考えねばなりません。確かに、仰せのように戸田氏は一応において朝廷においても藤原朝臣であったことは事実ですし、明治以降、時の政府においても華族令発布後、授爵した戸田氏は正親町三条家を宗家と仰いだようです。誤解されてはいけないと思いますが、私はあくまで説をあげたまでで、断定をしておりませんし、それをもって惑わす気はありません。

清和源氏説については、今のところしかとお応えできず申し訳ないのですが、戸田康光の討ち死に後、田原城主を相続した戸田光忠の系統に属する宇都宮、足利その他の藩主はともかくとして、戸田康光の次男 宜光の血をひく、松本藩主家 松平丹波守に限っていえば終始 藤原姓のみを称したとはいいきれないようです。

その説に関しては江戸時代の文書が根拠のようですが、その成否を別として、陸奥六郎義隆を祖とする清和源氏説を称している文献がありました。

清和源氏説の出典に関しては、この投稿の中では出典できず申し訳ありませんが、必要とあらば後日、改めて記載したいと思います。

ちなみに、源氏説に立った場合も最終的に正親町三条家より養子をとった形になるようで、その意味ではあまり違わないのかもしれませんが。
およそ、大名家においては源平藤橘の観点でみるには、無理も伴うものです。鎌倉時代に栄えた家ですら、その血筋の正当性は疑念をもたれることすらあるのも確かですし。
そういった氏という越えて、予測の範囲としていわれているのは、戸田氏は近江国発祥の正親町三条家の代官で、領家たる藤原氏を仮冒したものという見方もあるようですが、歴史学に100%の正答はないので、これも一説ということになりますが。

ただ、こちらからも一言申し上げれば、私も歴史学の造詣がありまして、その範囲で申し上げれば、およそ学術としての歴史学においては、あらゆる説が並び立つものです。
私は自説ではなく、その一説を引き合いに出しただけですので、そこはご理解頂ければ幸いです。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:31 (No.488040)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2005年12月31日(土)00時03分10秒
あこさま
すみません、答えるべき質問がなかったので、感想を書きます。

(私の母(69歳)の実家が静岡県で、母の旧姓が戸田です。
母の祖母の代で、三河(愛知県)から静岡県に移り住んだということです。)

静岡のどこでしょうか、三河に最も近い浜松地方でしょうか。どこかで移る前が想像できます。母の祖母、あなたの曾祖母つまり、4代前になりますね。母上は69才ということで、昭和11年生まれとすると、祖母は明治の末頃の生まれ、曾祖母は明治の中頃、15年から20年頃の生まれでしょうか。曾祖母は単身ではないでしょうが、結婚してからだったら、夫の都合か何か事情があって、明治の末か大正の初めに静岡に移られたのでしょう。

(母の子供の頃までは家系図があったそうですが、どこかのお寺に預けたまま紛失してしまったとか・・。)

どこかわからない寺に、家系図を預けることは滅多にないことだと思いますが、その寺は菩提寺だったのではないのでしょうか。今の寺(その曾祖母を祀る)の宗旨は何ですか。臨済宗妙心寺派ではないですか?戦災を受けてない寺なら残ってる可能性はありますよ。寺は意外と物持ちが良いものです。

(10年近く前に、母が自分のルーツを知りたくなって調べたらしく、
田原城を訪ねた際に、本家の方(?)とお会いして話したそうです)

一族の集まりで、田原に行き、確か、そのとき僕もそこにいました。残念ながら僕は、お母上とはお会いしてませんが、一緒に居た足利の殿様の末裔の戸田忠武氏と話されたと思います。いま、こんな方(あなたの話のようなことを話す方)とお会いしたよ、と忠武氏が話された記憶があります。

家紋や、伝えられた文書の類の史料、先祖の戒名、菩提寺などわかればルーツは探れます。自分の存在確認をしたくなるものです、人間は。生きた歴史の勉強にもなりますので、興味を覚えたら、ぜひ先祖・戸田氏を追いかけてみてください。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:18 (No.488028)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2005年12月29日(木)18時32分55秒
帯刀先生
この際なので、答えられるものはすべていきます。

<戸田氏が源氏だとすれば、鬼武蔵こと森長可、本能寺の変で倒れた森蘭丸なども同族ということでしょうか。千葉氏には戸田十郎信義の祖父 若槻伊豆守の血を分けた押田一族。信濃には村上氏とともに北信に勢威をはった若槻氏嫡流がおります。
陸奥白河の高松定隆は若槻頼隆の子で、その孫 定安は南北朝時代に北畠顕家について利根川の戦いで足利尊氏軍を破ったという記録もあり、戸田氏が源氏なら有名な武将も多くなるのですが。。ちょっとした願望です。>

三河戸田氏は藤原で源氏の由緒はありません。われらには特に源氏でありたい願望はありません。

<下記リンクには戸田氏の系図の載ったコーナーがありますが、『誓願寺文書』という古文書の中に戸田氏清和源氏説の詳しい系図がある様ですね。。>

これこそなんとも納得のいかない話です。『誓願寺文書』 といわくのありそうな、昔から同寺に伝わる文書のような言われ方をされますが、誓願寺さんは絶対そうは言わないと思います。<戸田氏清和源氏説の詳しい系図>実は、この系図は数十年前にある人が、誓願寺に持ち込んだものです。「御所山戸田系図」と確か書いてあったような記憶がありますが、歴史のある素晴らしい寺で、確かに戸田氏に関係深い寺なのですが、その系図だけは問題です。どんな意図があったのか定かではありませんが、歴史を混乱に導くことはやめて欲しいものです。このひとつをとっても源氏説はないことがおわかりでしょう。根拠を作ろうとする動きがかつてあったようです。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:17 (No.488027)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2005年12月29日(木)18時03分57秒
帯刀先生
私のわかる範囲でお答えします。

<一つは戸田氏の由緒です。戸田氏はその系図に関してはよく藤原氏説が唱えられていますが、公卿が戦国期に流浪して大名化するのは考えにくく、清和源氏説も強いようですね。>

我が三河戸田氏は藤原を称しています。幕臣として生きてきた殆どがわが一族の戸田であり、その初代は、戸田弾正左衛門藤原宗光となります。大名、旗本、の戸田氏は幕藩体制が始まった時、既に藤原を称していたわけで、その意味では藤原ですとしか言いようがありません。ただ、藤原氏を仮冒したに過ぎぬか否かは不明です。三条家に繋がる系譜は有してますが、その実はわかりません。このような説がある、ということでしょう。源氏説は、わが一族では伝わっていません。<清和源氏説も強いようですね。>と言われるのか見当がつきません。


<そこに藤原氏の養子をとったという説もあるみたいです。系図は不明点が多いとはいわれますが、自称や詐称には厳しい系図の世界でも、あまり疑義は挟まれていません。一体どちらなのか。または真実はどれなのか。>

これは、大名家のみならず、多くの場合、家の歴史を調べると誰もが突き当たる疑問です。戦国時代(室町中期以降)、後の大名家の勃興期は、家の名前や血筋ではなく、強い者が生き残ったわけで、その意味ではどこの誰であるかの確認など不必要だったはずです。必要になった時代となり、改めて作成に走ったのではないでしょうか。その疑義を問うと、将軍家への疑問も生じる可能性もあり、<あまり疑義は挟まれていません。>のもむべなるかなと
思われます。

<清和源氏説であるとすると、>
これはわが一族にはありません。

<八幡太郎義家-陸奥七郎義隆-若槻伊豆守頼隆-森判官代頼定-戸田十郎信義と続きます。信義には三人の男子がおり、彦太郎義忠、孫次郎頼重、十郎義房がおります。>

出典はなんでしょうか。全く我々には関係ありません。

<さらに三人の子の誰の子孫かはわかりませんが、南北朝時代には戸田弾正忠宗忠という武将が、尾張国品川から兵を率いて信濃宮宗良親王の配下となったとか。清和源氏説をとれば戸田宗光はこの宗光の孫とされている様です。>

尾張の品川ではなく、品野でしょう。瀬戸市です。確かにこの説は一部にありますが、甚だ疑問です。瀬戸の人で、既に亡くなられた方が書かれた「日本城郭全集・愛知県」に詳しいですが、なんとも根拠があいまい過ぎて信じられません。というより根拠がなく、その方の思い込みによるものと考えられます。


<藤原説では戸田宗光の父を実光としている資料がありますが、角川書店の愛知県姓氏大辞典では、戸田弾正左衛門宗光の父として三郎綱光という人物名が出てきます。実際のところはどうなんでしょうね。。>

「愛知県姓氏大辞典」はなにから取り上げられたか知りませんが、戸田宗光の父は実光または実興で、玉栄大禅定門と言う方です。玉栄の名前はは文書があるので疑問の余地はありません。ただし、実光か否かは不明です。三郎綱光は宗光の父ではなく、時代が下がってくると居た人のようです。このホームページのオーナーのお持ちの波の上戸田氏の系譜にのみ出てくる、諸書にはない有名な名前です。

<また、いまひとつの疑問は大垣藩主の家系について。松本藩、宇都宮藩、足利藩の戸田氏とは別家にあたる戸田一西の先祖は誰なのか今ひとつわかりません。ご存知の方はおられるでしょうか。品川城主だった政光の弟に戸田家光という人物がいるのでこの武将かもしれないと見る向きもありますが・・。>

戸田一西の先祖は誰なのか・・これは確かに疑問です。大垣藩では、天正年間に系図を焼失したと幕府に差し出しているので本当に不明なんでしょう。また、大垣藩では幕府時代にそれなりに調べていますし、松本藩でも、文化・文政のころ、「戸田家系校正余禄」という書物を鈴木重諧なる人物に歩いて調べて、書かせて(三河を歩いて探してます)います。それぞれの大名家では、それなりの意味を持つ調査をしてますが、大垣藩の由緒を探るのに、決定的な証拠になるようなものは出なかったのでしょう。ただ、一西の子は(後の)宇都宮の戸田の娘と婚姻し、松本の戸田の娘とも婚姻関係を結んでいます。つまり、幕藩体制がスタートした時期に、すでに戸田氏の一族で婚姻する関係にあったということです。
また、品川ではなく品野だと思いますが、城主が政光とは初耳です。戸田家光も知りません。ただし、有名な岡崎の大樹寺文書の松平一門の連判状に、田原孫次郎家光があり、これは田原戸田の一族であろうと言うことは承知しています。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:15 (No.488023)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2005年12月29日(木)14時58分50秒
N・TODAさま
白須賀の戸田さま。白須賀が田原の近くのどの辺りかわかりませんが、寺は湖西のどこでしょうか。「家紋は九葉」とのことですが、これは「九曜」と思います。これは、戸田氏でも、(狭義の)田原戸田氏ではなく、大垣の戸田氏と、土着した、このページのオーナーである浪の上の戸田氏が使用している紋所です。
先祖の調べ方が判りません、とのことですが、まずはあなたのお思いの通り、
「昔の菩提寺は湖西市内にあるそうですが、そういう所で調べると判る」かもしれませんので、まずはあたってみてどのくらいまでさかのぼれるか、お調べになってみたらいかがでしょうか。個人情報保護の点から考えてみても、ご本人が寺に出向く以外調べようがないと思いますが、いかが。

戸田 博さま
私の実家は静岡県ですが、とのことですが、
静岡のどこでしょうか。駿河ですか、遠江ですか、はたまた伊豆ですか?

<400何十年前に愛知県から来ました。当時孫右衛門と言う名前の人がいました。
知多の河和か富貴の関係ではないかと思うのですが、家紋が丸に桔梗なので??です。
津島神社との関係もあるみたいです(言い伝えですけど)。
推測出来る方いらっしゃいませんか? >

非常に興味ある話です。まず、愛知県から来たということは、どうしてわかったのですか。それに、尾張からでしょうか、三河からでしょうか。確かに知多の河和、富貴には戸田孫右衛門の名前があります。これは歴史的にはっきりしていて、戸田氏2代戸田憲光の係累です。三河湾の制海権を握っていたことが推測できるので、そんなことから静岡県の海岸側に(港に近くに)土着した一族がいることも想像できます。津島神社との関係も面白いことで、「尾張国系図部集」なる書籍にそのあたりを彷彿させる記事があります。
戸田氏の発祥の地と言われる、尾張國戸田は、現在の名古屋市中川区戸田町ですが、この地は津島神社と関係があったようです。
家紋の丸に桔梗は知りません。ただ、紋所は結構代わると言うか、意識をしない方がいると次の代は変わる事もありますので、いつごろか使用しているのかまずはお調べになられてはいかがでしょうか。母方の実家が使用した家紋かもしれませんから。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:13 (No.488017)削除
投稿者:あこ 投稿日:2005年11月14日(月)20時02分15秒
私の母(69歳)の実家が静岡県で、母の旧姓が戸田です。
母の祖母の代で、三河(愛知県)から静岡県に移り住んだということです。
母の子供の頃までは家系図があったそうですが、どこかのお寺に預けたまま紛失してしまったとか・・。
10年近く前に、母が自分のルーツを知りたくなって調べたらしく、
田原城を訪ねた際に、本家の方(?)とお会いして話したそうです。

聞きかじったことなので詳しくはわかりませんが、戸田氏のHPをみつけて思わず書き込みをしてしまいました。

詳しいことがわかりましたら、また掲示板に書かせていただきたく思います。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:12 (No.488013)削除
帯刀先生メール 投稿日:2005年 3月21日(月)01時56分54秒
以下、リンクをはったのはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に戸田氏のことがあるのでリンクをはってみました。ここの方がより詳しいですね。

戸田氏が源氏だとすれば、鬼武蔵こと森長可、本能寺の変で倒れた森蘭丸なども同族ということでしょうか。千葉氏には戸田十郎信義の祖父 若槻伊豆守の血を分けた押田一族。信濃には村上氏とともに北信に勢威をはった若槻氏嫡流がおります。
陸奥白河の高松定隆は若槻頼隆の子で、その孫 定安は南北朝時代に北畠顕家について利根川の戦いで足利尊氏軍を破ったという記録もあり、戸田氏が源氏なら有名な武将も多くなるのですが。。ちょっとした願望です。

下記リンクには戸田氏の系図の載ったコーナーがありますが、『誓願寺文書』という古文書の中に戸田氏清和源氏説の詳しい系図がある様ですね。。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:10 (No.488008)削除
投稿者:帯刀先生メール 投稿日:2005年 3月21日(月)01時45分48秒
戸田氏のことを研究しておりまして、思いもよらずここのサイトを発見しましたのでお邪魔しました。

水戸藩士にも松本藩主 松平康長公の従弟の子孫がおりますね。徳川斉昭の家老で藤田東湖とともに水戸の両田といわれた戸田蓬軒という人物を研究しております。もちろん、自分に関係あってのことですが、詳しいことは差し控えさせて頂きます。二つ疑問があってお邪魔しました。

一つは戸田氏の由緒です。戸田氏はその系図に関してはよく藤原氏説が唱えられていますが、公卿が戦国期に流浪して大名化するのは考えにくく、清和源氏説も強いようですね。そこに藤原氏の養子をとったという説もあるみたいです。系図は不明点が多いとはいわれますが、自称や詐称には厳しい系図の世界でも、あまり疑義は挟まれていません。一体どちらなのか。または真実はどれなのか。

清和源氏説であるとすると、

八幡太郎義家-陸奥七郎義隆-若槻伊豆守頼隆-森判官代頼定-戸田十郎信義と続きます。
信義には三人の男子がおり、彦太郎義忠、孫次郎頼重、十郎義房がおります。
さらに三人の子の誰の子孫かはわかりませんが、南北朝時代には戸田弾正忠宗忠という武将が、尾張国品川から兵を率いて信濃宮宗良親王の配下となったとか。清和源氏説をとれば戸田宗光はこの宗光の孫とされている様です。

藤原説では戸田宗光の父を実光としている資料がありますが、角川書店の愛知県姓氏大辞典では、戸田弾正左衛門宗光の父として三郎綱光という人物名が出てきます。実際のところはどうなんでしょうね。。

また、いまひとつの疑問は大垣藩主の家系について。松本藩、宇都宮藩、足利藩の戸田氏とは別家にあたる戸田一西の先祖は誰なのか今ひとつわかりません。ご存知の方はおられるでしょうか。品川城主だった政光の弟に戸田家光という人物がいるのでこの武将かもしれないと見る向きもありますが・・。

散文失礼しました。皆様、宜しくお願いします。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/7/29 17:09 (No.488006)削除
戸田博メール 投稿日:2005年 3月19日(土)21時24分22秒
はじめまして;私は戸田と申します。私の実家は静岡県ですが400何十年前に愛知県から来ました。当時孫右衛門と言う名前の人がいました。知多の河和か富貴の関係ではないかと思うのですが、家紋が丸に桔梗なので??です。津島神社との関係もあるみたいです(言い伝えですけど)。推測出来る方いらっしゃいませんか?
差し出がましくてすいません m(__)m 投稿者:くらじろう 投稿日:2005年 1月15日(土)20時03分15秒
こんばんは!管理人さま様&みなさま
一昨年以来、今回で2度目の訪問です。
管理人さまを差し置いて申しわけありません。久しぶりに立寄らせていただきましたところ、北ちゃんさんのコメントを偶然拝見しました。田原市内を散策した際に宝憧寺跡も回ってきました。画像程度しか提供できません。すいません。 m(__)m
http://photo.www.infoseek.co.jp/AlbumPage.asp?m=0&key=890920&un=117188
返信

Copyright © 戸田氏の系譜来訪者メッセージ, All Rights Reserved.