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管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:05 (No.503721)削除
投稿者:正圓寺 金仙宗哲メール 投稿日:2009年11月18日(水)14時36分23秒
正圓寺気付戸田正彦様宛てで文書が届いています。心当たりがなく、近くの戸田様にも該当者ないため開封をしてしまいました。戸田氏連翹の会の戸田正彦様と知り、ここに書き込みさせていただいた次第です。そちらのご住所を教えていただければ転送させていただきます。内容は広島三原戸田氏に関わる綿密な資料です。多分その方も住所がわからずに当方へ送られたのだと推察します。よろしくお願いします。正圓寺住職金仙宗哲拝
三原戸田家関係さん (9gyb3k7s)2025/3/17 12:01削除
私の曽祖母が戸田家です。世が世ならお姫様だったと言っていました。昔の暮らしは裕福だったようで、地元の歴史上有名な家とお見合い結婚しています。三原戸田家と関係あると思って情報を探しています。江戸時代後期?の戸籍まで取り寄せてますが、戸田という姓が親戚にも沢山います。こちらの資料がとても気になります。その情報を教えていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
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A
Adam from Polandさん (9e5rvj6x)2025/1/6 03:26 (No.1364019)削除
私の名前はアダムです。ポーランド出身です。戸田家の紋章が付いた侍の鎧を所有しています(胸部と兜にあります)。また、鎧の内側にはいくつかの名前が刻まれた銘文がありますが、私はそれを翻訳することができません。写真をお送りします。この中で認識できるのは1884年という年だけです。

この銘文の翻訳を手伝ってくれる方はいらっしゃいますか?また、この鎧の持ち主だった侍や製作者について、何か詳しい情報を教えていただけると幸いです。
宇都宮の歴史オタクさん (9exyxnqc)2025/1/25 21:36削除
たまたま通りかかりましたので、写真の文字についてお答えできればと思います。

まず、お写真で写っている文字については、以下の通りだと思われます。
「  鍜治
     吉五郎
   緘師
     明珍長五郎
 天保十五年辰年調                」
さて、この意味ですが、まず天保十五(15)年は、西暦で1844年のことです。最後に「調」とあるのは、おそらく「調達」など、この鎧を作った、準備したという意味だと考えられます。
続いて、その上の内容ですが、「鍜治(かじ)」は鎧に使用されている鎧を加工する職人のことで、ポーランド語は分かりませんが、英語で言うと「Blacksmith」になります。これの刀版が「刀鍛冶(かたなかじ・Swordsmith)」です。「吉五郎(きちごろう)」とあるのは鍛冶の名前で、この人が鎧の金属を加工したということです。
もう一方の「緘師」は、おそらく「縅師(おどしし)」の誤りと思われます。「縅(おどし)」は、鎧の「小札(こざね)」と呼ばれる部分を革や糸で結び合わせることで、「縅師」はその職人だと考えられます。「明珍(みょうちん)長五郎」はその縅師の名前です。代々鎧や甲冑を作る職人の一族に「明珍家」がありますので、「明珍長五郎」もその一族なのでしょう。

私がわかるのはこの程度のことです。明珍家については、現在も「明珍本舗」として続いているようなので、そちらに問い合わせると良いかもしれません。

参考文献
門司郷土叢書刊行会編『門司郷土叢書 第4巻』(国書刊行会、1981年)
明珍本舗HP〈https://myochinhonpo.jp/〉、2025年1月25日最終閲覧
宇都宮の歴史オタクさん (9exyxnqc)2025/1/25 21:53削除
※誤字訂正
15・16行目「「鍜治(かじ)」は鎧に使用されている鎧を加工する職人~」の箇所ですが、正しくは「鎧に使用されている金属を加工する職人」でした。
大変失礼しました。
返信
宇都宮の歴史オタクさん (9exyxnqc)2025/1/25 21:01 (No.1377262)削除
戸田正彦様

始めまして。
私、大学生時代より宇都宮藩戸田家の家臣団形成とそのルーツについて研究している者です。戸田氏連翹の会については、大学の指導教官よりお話を伺っておりまして、機関紙「れんぎょう通信」も2003年発行の第17号まで拝見しており、大変参考にさせていただいております。

さて、お尋ねしたい点は二点ございます。
①間瀬氏御子孫の方とのやり取りでおっしゃっていた「大間瀬・小間瀬」の話は初耳でしたので、驚きました。
私の現在の研究でも、宇都宮藩には清水権之助の末裔を称し、戸田尊次の庶子「忠季」を初代と称する(間瀬氏墓碑より)本流と、「宗左衛門定静」、「半八郎定孝」など、「定」を通字とする別流間瀬家の二系統が存在することが分かっているのですが、本流間瀬家にも「半右衛門」など「半〇〇」を通称とする人物がいることから、どこかの時代で分家したものと思われます。つきましては、「大間瀬、小間瀬」についてご存じであれば、詳しくお教えいただきたく存じます。

②幕末期の分限帳(徳田浩淳『宇都宮郷土史』所収)内に「戸田伊織」という人物が記載されておりますが、この人物が宇都宮藩に仕える戸田家のどの系統に属するのか、未だに不明です。
現在のところ、戸田家には「戸田七兵衛家」、「旧羽太姓戸田家(戸田郁三郎家)」、「戸田小膳家」、「戸田三左衛門家」、「戸田保家」の5系統が存在することが分かっているのですが、戸田博亘氏の『幕臣戸田一族の系譜』等の系図を見ても、「戸田伊織」の名前は見つかりません。つきましては、この「戸田伊織」についてご存じのことがございましたら、是非ご教授いただければと思います。

長文になり大変申し訳ございません。
どうぞよろしくお願いいたします。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:17 (No.503741)削除
投稿者:戸田さんの子孫  投稿日:2012年 5月 2日(水)00時13分54秒
こんにちは 女系の先祖を辿ったら戸田の姓に行きつきこちらを見つけました。
文政11年生まれで愛媛県新居郡氷見村の士族戸田家から広島に嫁いでいきました。
この愛媛県の戸田家について心当たりのある方はいらっしゃいませんか?
宜しくお願いします。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:17 (No.503740)削除
投稿者:管理人 投稿日:2012年 4月28日(土)06時14分11秒
京都に勤務し早いもので2年を経過しました。転勤でこの4月から名古屋勤務となり、38年振りに「三河波上」の自宅に戻りました。異動のバタバタでこの掲示板もチェックしていなかったのですが、久しぶりに覗いてみると戸田正彦先生が復活されていたので大変嬉しく頼もしく思いました。今後ともよろしくご教示の程お願いします。   管理人
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:16 (No.503738)削除
投稿者:京都の戸田 投稿日:2012年 4月13日(金)21時42分22秒
ありがとうございました。本当に「接点が見つからない」ですね。氏○なら大垣系でも紋が違う!でも、想像がよりいっそう膨らみました。梅鉢とばかり思っていたのが、「六つ星」だとわかり良かったです。改めて祖先の墓石の紋を見、そして大垣藩主・松本藩主戸田氏と知らなかった事も知る事ができよかったです。詳しく教えていただきありがとうございました。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:15 (No.503737)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2012年 4月 1日(日)22時11分52秒
詳しくありがとうございました。現時点では戸田氏につながる接点が見つかりません。定説とは違う点が多いのです。だから逆にそこが不明なところを解決するポイントになるのかなあと思っています。
*先祖は上賀茂の、大田神社の近くににお住まいのこと了解しました。
*初代が元禄14年歿とのこと、まずここが一つポイントです。既に幕藩体制が出来上がった綱吉の時代ですから、もし武士で禄を食んでいたなら、戸田氏のどこかの系譜につながるはずです。では、どこにつながるかですが、
*初代という「氏光」という名が大きな点です。氏○というなら、大垣藩主の戸田氏になります。○光を採るなら、これは本家筋の松本藩主の戸田につながります。代々が「氏」を通し字にしているようなので、大垣系と捉えるのが妥当でしょう。ところが大垣系の系譜には、この時代に歿した氏光は見当たりません。12代目の又右衛門ですが、おそらくは維新の時の方で、元服以前の通り名で戸籍名になったのだと思います。良くある例です。又右衛門、又兵衛、は旗本の戸田直頼系、七兵衛、七内だと、戸田光定系の可能性があります。
*紋所ですが、大垣なら九曜以外は考えられません。六曜と言われますが、九曜、七曜はありますが六曜は、紋帳にもありません。これは「六つ星」です。同じ意味ですが、呼称としては、六つ星です。梅鉢と間違えられることは良くあるのですが、ある時代の人が伝承されずに、形でのみ判断して、「我が家の紋は梅鉢」と信じ込んでいたことのようです。戸田には梅鉢はありません。
松本、宇都宮(私の家も)旗本、すべて大垣系を除くと共通するのは「六つ星」です。ですから、大垣系で「六つ星」となると、例がないのです。
*おそらく浄土宗だったのだと思います。当家も臨済宗の寺を菩提寺にしてましたが、明治になって神様になって、神葬して墓地も神葬の地になりました。戒名は系譜のみに確認できます。大垣系は、大垣に圓通寺、東京に蓮光寺いずれも浄土宗の菩提寺を持っています。松本ほか旗本系は曹洞宗、宇都宮系は臨済宗ですから、このことからも大垣系の可能性大です。
*多くの戸田氏を示すキーとなる要素があるので、どの戸田氏に繋がるか絞りきれないのが実情です。明治になり恐らく士族ではなく、平民という扱いになったと思いますが、それは武家に仕えてなかったからだと思います。苗字が許されていたわけですから、郷士であったかもしれませんし、寺院の係累だったかもと想像できますが・・。もう少し考えます。いろいろな可能性を。
とりあえず、お返事になっていませんがあしからず。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:14 (No.503736)削除
投稿者:京都の戸田 投稿日:2012年 3月28日(水)19時44分39秒
昨日の投稿は、雑なので、もう少し詳しく書きます。
☆12代目(1828年生)からは京都市北区上賀茂に住んでいたのはわかっています。
私の叔父の話では、今の住まいの近くに大田神社があり、その近くに戸田の家があったとの事ですが、初代はわかりません。
☆初代~11代(氏光・氏宗・氏説・氏秀・氏徳・氏成・氏常・氏栄・氏建・氏富・氏良)12代目も又右衛門ですが氏はないです。
☆紋も「丸に梅鉢」と「丸に加賀梅鉢」お墓は「6曜」と今回わかりました。
☆菩提寺はなく浄土宗智恩院派のお寺のお坊さんに来てもらってます。
上賀茂は明治以前8つの寺があったのですが、廃仏毀釈でお寺が潰されました。
各家でも仏壇も許されなかったのか、神棚みたいで位牌はなく掛け軸(系譜)です
戒名は族名です。父も亡くなったので、教えてもらえないのが残念です。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:13 (No.503735)削除
投稿者:京都の戸田 投稿日:2012年 3月27日(火)14時32分2秒
早々にありがとございます。40年程前に家」を建て替えた時に、資料などは捨てたらしく、系譜だけ残ってます。
住まいは京都北区上賀茂だと思います。
初代七兵衛(氏光)先日は「弋」と書きましたが、左上にも点があり「光」では
2代 又右衛門(氏宗・説・秀・徳・成・常・栄・建・富・良
12代目 又右衛門は(氏)がなく明治19年死。
紋は、仏壇には丸に梅鉢ですが、昭和初期の羽織と風呂敷などは加賀梅鉢?です
お寺はなく(上賀茂神社の近くで、廃仏毀釈でお寺が潰され)仏壇でなく神棚みたいですが、浄土宗です。
もう少し調べてみます。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:13 (No.503733)削除
稿者:戸田正彦 投稿日:2012年 3月26日(月)22時34分14秒
ルーツが知りたいとのこと了解しました。わかる範囲で協力します。京都にお住まいとのことですが、初代からずっとでしょうか。いくつかチェックポイントがありますので、お答えください。①住まいの変遷②当代までの名乗り・初代七兵衛氏弋 2代又右衛門氏宗・・・・(系譜はありませんか)③家の紋、替紋は? 六つ星、梅鉢(これはおそらく六つ星の真ん中の星を間違えて小さくしたため梅鉢になったと思います。よくあることです)④菩提寺の宗旨など。
*とても興味ある戸田氏です。というのは、氏宗とか、氏説とか、名に氏がつくのは大垣藩主の戸田系と思われるのですが、ならば九曜星が紋所にならなければおかしいし、七兵衛は戸田光定、又右衛門というのは、戸田直頼系で、氏○は名乗りにはありません。初代が幕藩体制が固まった元禄に歿した方なので、初代は誰かに仕えたのか、知りたいところです。
*戸田氏は藤原氏をそのルーツとしています。初代は、戸田弾正左衛門藤原宗光。信州松本、宇都宮、足利、大垣各藩主の戸田、旗本の戸田、わが一族は、すべて藤原を姓にしています。
おそらくかなりの情報がありそうなので、ある程度はっきりするのでは、と思います。調べてみてください。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:12 (No.503732)削除
投稿者:京都の戸田 投稿日:2012年 3月25日(日)23時12分3秒
はじめまして、紋について調べていたら辿り着きました。我が家は17代続いており、1代は
七兵衛(氏弋?)元禄14年死。2代目から12代まで又右衛門(氏宗・氏説・・)と氏が付きすごい家系なんだと思っていました。紋は梅鉢ですが、12・13代目の墓石は6曜でした。12.13.14代は金貸しで15代から今は農業を営んでいます。皆さんのを読んでいると私もルーツが知りたくなり、投稿しました。今思えば、父のおじさんが「戸田は藤原と関係が」って言われた事があり、そんなはずはないと思いますが、13代目が養子で藤原姓だからかな?
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管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:11 (No.503730)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2012年 3月23日(金)01時10分13秒
私の祖先は豊臣がたにつき、関ヶ原の合戦を戦ったと聞いております(六曜の家紋)・・・とのこと、驚いています。関ヶ原であるなら、石田方(豊臣方)か徳川方になると思いますが、大坂の陣でなく関ヶ原というのが興味がわきます。というのは、関ヶ原では、石田方について、織田有楽斎により討ち死にした、越前安居(あご)城主戸田武蔵守重政以外に、大名クラスでは戸田は見当たりません。大坂夏の陣では、大坂方について討ち死にをした戸田某の懐妊していた奥方が、岡山の勝山の山中に逃げて、男児出生したことにより、その後も代を重ね、今もそこに戸田一族が暮らしています。六つ星を家紋としてますが、先祖を藤原でなく源氏としています。いずれにせよ、豊臣に与した戸田氏も当然いたわけですが、徳川の時代では詳しい先祖のことは隠す以外になかったと思います。それだけに、資料があれば良いですね。ぜひもう少しいろいろ話して下さい。よろしく。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:11 (No.503729)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2012年 3月23日(金)00時46分54秒
一年前のお返事になりごめんなさい。宇都宮では失礼しました。ゆっくりお話ができず、ごめんなさい。さて、間瀬家は、戸田氏と姻戚関係があり、というより戸田から間瀬の家を継ぎ、後戸田に復し、幕末に大名になった戸田忠至もいます。その昔は定かではありませんが、今でも知多半島の河和の方に間瀬姓が多いようです。つまり、三河ではなく尾張系の家臣のようです。さて、宇都宮では、大間瀬、小間瀬という呼び方をしていたようです。本家筋の間瀬氏と分家筋の間瀬氏の違いと思いますが、江戸詰めだった間瀬(小間瀬)さんの末裔が神奈川にいます。この間瀬家とのつながりを確認する必要があるように思います。いかがでしょうか。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:10 (No.503728)削除
投稿者:戸田正彦 投稿日:2012年 3月23日(金)00時32分15秒
長いこと見られないですみません。オーナーにも謝ります。またできるだけお答えできるようにしますので、ご容赦を。まず、戸田 昇さんにお答えしたいと思います。紀州藩士の戸田氏の末裔には、現在3人の仲間がいます。一人は戸田清堅の末裔、一人は河和(知多半島)の戸田の末裔、この両家は貴家と同じ六つ星を紋所としています。もう一家は、オーナーと同じ、浪の上戸田氏の一族であるらしい九曜星を家紋とする家です。おそらく紀州藩の戸田氏は、この三系統が主軸かなあと推測しています。いずれにせよ、「先祖は徳川家の家臣で三河より紀州に来たと聞いておりました」ということと、「六つ星を紋所」としている以上、わが一族の血を引く方と思われます。勿論オーナーとも一族となります。貴家の寺は宗旨はわかりますか。幕末の代の方のお名前はわかりますか。前者二家の当代の方に訊けば、近い一族ならはっきりわかると思います。調べてみてください。以上
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:09 (No.503727)削除
投稿者:戸田 昇メール 投稿日:2011年11月15日(火)16時07分34秒
戸田正彦様へ(お願い)
 初めまして、京都の戸田昇と申します。私は恥ずかしながら昨年まで戸田家の先祖に関する事は全く存知ませんでした。知人から宮城谷昌光の「風は山河より」の本の中に戸田氏の事が頻繁に書かれているので「戸田さんのルーツが解かるのでは」と読むことを勧められました。読む程に興味が湧き、インターネットで調べれば家紋も同じ六つ星、我が家も偉大なる先祖の末裔ではないかと思いましたが、父は和歌山県の出身で先祖は徳川家の家臣で三河より紀州に来たと聞いておりました。しかし三河と紀州の結びつきが分からずもやもやしておりましたところ、「戸田氏系譜」掲示板に戸田正彦様投稿2006年7月8日のページに「戸田三郎九郎清光の子孫は紀州藩にあり、子孫は仲間です」の記載が目に止まりました。
大阪夏の陣後徳川頼宣に従い和歌山城家老になった戸田金左衛門清堅の末裔ではないかと推測しておりますが、戸田正彦様に詳しく教えて頂けたら有り難いと投稿させて頂きました。先般管理人さんよりご連絡を頂き、現在京都に単身赴任中とのことで、お会いさせていただきましたが、席上戸田正彦様にお聞きしたらと紹介して頂きました。、僭越でございますが何分よろしくお願い申し上げます。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:08 (No.503726)削除
投稿者:戸田 昇メール 投稿日:2011年10月14日(金)17時41分47秒
戸田金左衛門清堅(和歌山)の子孫であると推測しておりますが、家系図及びお墓の場所が分かれば教えて頂きたいのですが、よろしくお願いいたします。
私共の過去帳とドッキングできないかと調べております。
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:08 (No.503725)削除
投稿者:間瀬信司メール 投稿日:2011年 3月18日(金)16時50分56秒
3年前に宇都宮での勉強会の席で御面談頂いた、間瀬です。我が御先祖(4代前)は、戸田家
御家記に記された、大阪表屋敷表出役、間瀬信之助です。又、同書には、家老間瀬新兵衛の名も在り、一族の関係が解ればご教示いただけないでしょうか?
我が家の過去帳には、何名かの間瀬新兵衛を発見し、関係が不明です。
何卒宜しくご教示下さい
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:07 (No.503723)削除
投稿者:戸田メール 投稿日:2010年 8月18日(水)02時34分1秒
祖先のルーツを調べていて立ち寄りました。
私の祖先は豊臣がたにつき、関ヶ原の合戦を戦ったと聞いております(六曜の家紋)。
インターネットで得られた情報は徳川に属した戸田氏のものがほとんど
だったので、何か情報はないものかと気になっておりましたが、この掲示板に
「織田方から秀吉についた戸田氏(前述の勝隆たち)もあり、各地の大名の家臣となった一族も少なくないようです。」
とあり、興味深く思いました。
後々はこのwebサイトを見習って(掃除がてら)整理していきたいと思っています。
それでは
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:06 (No.503722)削除
投稿者:正圓寺 金仙宗哲メール 投稿日:2009年11月18日(水)14時39分49秒
私のメールアドレスは下記の通りです。送付先の住所はそのメールに送ってください。
 konsen@mx1.tees.ne.jp   注:mx1は数字の1でありアルファベットのlではありません。念のため
返信
管理人さん (8eql8duw)2022/8/12 13:04 (No.503720)削除
投稿者:尾崎信之メール 投稿日:2009年11月15日(日)20時31分56秒
天保二年頃、原謙策と言う医者(名古屋の蘭方医野村立栄に師事した)が鶴峯戊申を慕い江戸に出て門下生に成り、後に(弘化3年頃か)戸田候に仕えるようになった。また直前の門人は千本司馬で同じ戸田候人と記してあります。この戸田候がどこの戸田候か分らないので追求の手立てがありません。もし分りましたらお教え下さい。
現在、吉田藩医にもなった利光仙庵と言う蘭方医を調べていて、吉田で鶴峯戊申と会っていたときに原謙策にも会ったという事ですのでこの人物の詳細をも知りたいと思います。
全久院のほうはその後少しも進展せずに心苦しくは思っています。
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